『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』論

 これから『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』論の執筆を再開するのですが、まだ半分くらいしか書けておりません。がんばります。
 総論の一部を引用してみます。
 

 そして、実は『まなび』が批判しているのは、アニメに対してにとどまらない。現代社会そのもののあり方について、これほど鋭く的確なメッセージを向けたアニメは、二〇世紀最高の超名作『宇宙船サジタリウス』(一九八六)くらいしか思いつかない。
『まなび』でくり返し語られるテーマとして、「仲間といっしょになにかをやり遂げる楽しさ」というものがある。実はこの一見単純に見えるテーマが、本作に含まれる最大の「批判」であると言ってよい。
 詳しくは、橋本治氏の諸作(『日本の行く道』(集英社新書)など)や、浅羽通明氏の『昭和三十年代主義』(幻冬舎)、あるいは氏が雑誌「m9」(晋遊舎ムック)創刊号に寄稿した文章を参照していただきたいが、現代において失われてしまった「大切なもの」の一つに、「協働」ということがある。日本がまだ貧しかったころ、「必要」という絆でつながれた人々は「協働」ということをした。そこには人と人との関わり合いを前提とした共同体が重層的に、織りなすように存在していて、「みんなで役割分担をして、なにかを維持していく」ということをしていた。「なにか」とは、工場であったり、家庭であったり、会社であったりした。また、それは「国家」でもあっただろう。そういった状況はだいたい、いわゆる「昭和三十年代」のあたりに消えていった。
 豊かになった人々は「不便」を失った。失って、「協働」しなければならない「必要」も失った。そして「ものを考える」や「手を動かす」ということを、しなくても生きていけるようになった。「もう成長しなくてもいい」という状況をつき破って成長を続け、生産は主に機械が引き受けて、人々は消費するばかりになった。「消費社会」と呼ばれるものはそのように生まれて、もちろんよい結果ばかりをもたらさない。
 二〇三五年にまなびたちが通う聖桜学園の一般生徒たちはまさしくこの「消費社会」というものに飲み込まれ、当たり前にそればかりを行っていた。「学園祭」よりも「駅前のダンスパーティ」に興味を示すというのが端的な例である。キャッチーな「新しい制服」や「新しい校歌」を簡単に受け入れて「悪くない」と思ってしまうのも、「新しいものを買っては捨てる」という癖が身体に染みついているせいだろう。これはなにも二〇三五年の話だけをしているのではない。現代だって十分すぎるほどにそうだ。
 橋本治は『青空人生相談所』(ちくま文庫)の中で、「平凡な顔をした退廃」という表現を使った。曰く、
 
「陳腐というのは凡庸ということです。凡庸ということは、ザラにあるということです。ザラにあるんだから、別にそれをいやがることもないんじゃないかというのが、現代の最大の退廃なのです。
 陳腐であるということは、退廃しているということです。現代では、既に退廃もそこまで大衆化しました。平凡な顔をした退廃とくっつく必要はないということです。そして、平凡な顔をした退廃ほど、逃げるのに困難を極めるものはありません。何故ならば、平凡こそは人類の行き着く最終の安息の地だからです。そこが退廃しています。そこに居着いたら、もう永遠に逃げ場はありません。」
 
 第一話でまなびが生徒会長としての承認を受けたとき、はじめに拍手を始めたのは下嶋先生だった。次に上原むつき。そして園長先生。ほかの先生たち。そしてやっと、一般生徒たち。そんな順番だった。生徒たちは、意識的にか無意識にか、「先生や一部の生徒が拍手してるんだから、自分たちも拍手しておくか」という、いわばその場のノリで行動を決定している。自分では何も考えず、ただ多数派、もしくは先生という権威に従っているだけなのだ。橋本治のいう「ザラにあるんだから、別にそれをいやがることもないんじゃないか」というのは、こういう考え方のことだ。彼女たちは退廃していた。少なくともこの時点ではまだ、そうだ。
『まなび』という作品は、「平凡な顔をした退廃」という「人類の行き着く最終の安息の地」にいる一般生徒たち(これには主要登場人物も含まれるのかもしれない)が、まなびという「まっすぐゴー」な生徒会長を得たことによって、自分たちで考えて能動的に動くようになったり、「仲間と協働する楽しさ」を知っていくまでの物語なのである。だから、主人公はまなびであって、まなびだけではない。まなびによって変えられた聖桜学園の生徒たちや、外部の人々(愛洸学園理事長や生徒会長の角沢多佳子など)みんなが、本作の主役である。みんなが成長して、みんなが「わくわくきらきら」を知ることができたのである。
 さらに言えば、『まなび』という作品によって目を開かれた筆者のような視聴者も、物語の中に取り込まれていると言っていいかもしれない。
『まなび』は、現代人が忘れてしまった「協働」のやりがいや、「なにをおいても絶対に正しくて、大切なこと」(たとえば「楽しい」ということ)を、視聴者に思い出させようとしている。それも、あえて「おたく向け」の要素も入れて。だから『まなび』は、現代のおたくに対する啓蒙アニメという側面もある。どれだけの数の人々にこのメッセージが届いたのかはわからないが、筆者は『まなび』の魅力を信じたい。きっと、なんらかの形で伝わったことはあるはずだ。こんなにも美しく、正しく、熱い魂を持った物語が、人間の心を打たないはずがないのだから。

 
 さて、こんな冊子を誰が読みたがるのでしょう。あなたですよ!
 ところで、先日飲みの席で某ミュージシャンさんが「9条ちゃんの歌をつくる」と言って即興で弾き語りしてくださいました。「憲法9条ちゃ〜ん、きみの身体に白いマグマがふりかかり〜」みたいな、よくわかんないですがそんなんです。もし本当に完成したらアップしますが、もう忘れてしまわれているかもしれません。