続・田川ミ『ドッヂ』(アフタヌーン四季賞2009春うえやまとち特別賞)――「前近代」という正しさ

 田川ミ『ドッヂ』(アフタヌーン四季賞2009春うえやまとち特別賞)――誰も褒めないなら僕が褒めるぞっ!(追記あり)
 
 上の記事を書いてからしばらくの間に、四人ほどの信頼できる友達が(わざわざアフタヌーンを買って!)『ドッヂ』を読んで、感想をくれた。それだけで書いた意味があったなあと思う。嬉しい。
 僕と同様に『あまいぞ!男吾』大好きな友達は手放しで絶賛してくれたし、漫画を描いている友達は僕とはまた違った角度から「良さ」を見つけてくれたし、「正しいね」と同意してくれた子もいたし、「胸が熱くなる」と言った人もいた。
 
 ところで、上の記事を書いてからちょっとして、2chでも『あまいぞ!男吾』との比較がされるようになった。やっぱり「似てる」と思った人はいたのだなあ。でも、どうしてあそこに書き込みをする人たちは、「似てる」とか「連想する」という種類のことを、批判の材料にしか使えないんだろう? どうしてすぐに「パクリ」とか「フォロワー」という言葉を使って考えようとするんだろう? そうじゃないでしょう、魂が同じだから、しぜん似てくるんでしょう。田川ミ先生が『男吾』を読んでいるかどうか、意識しているかどうかなんて本当にどうでもよくって、大事なのは「あの名作が持っているのと同じ種類の魅力を『ドッヂ』は持っている」というだけのことだよ。僕はそのことを「素晴らしい」としか言えないよ。
 まあ、2chの有象無象の感想よりも僕は僕の友達の感想のほうを何百倍も重視するから、やっぱり『ドッヂ』はいい作品なんだなあー、と思って、いまとても嬉しい。ただ、この書き込みはちょっとだけ共感したかな。細かいところはさておき。
 

737 名前:名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2009/05/29(金) 23:48:43 id:O9zbKzrDO
しつこくてすまんがひとつだけ
ドッチの事だが絵柄も作風もそっくりだという意味で「まんま」と書いたがパクリとは思ってないんだ
絵柄はより線が細く洗練されてるし
ライバルは中身も男前で今風だし(主人公のが女々しく見えるほど)
ああいう爽やかなマンガを描く人が昔のマンガだからバレないだろうなんて考えるだろうか
また、それ程計算高い奴がアフタの読者層を見落とすかな
Moo念平に影響を受けたフォロワーと考えた方が自然じゃないかな
そうであればむしろ嬉しい
ああいう昔ながらの少年マンガを描く人は貴重だと思う

 
 僕は何年も前からずーっと、『あまいぞ!男吾』は面白い、読め、ということを方々で言っているのだが、前も言ったけど絶版なので、「ジャッキーさん、男吾とやらが読みたいんだけど売ってません!」と不平を言われたりして、「すみません……」といった気分になってしまうことも多い。本当に小学館は何を考えてんだかわからん。いや、「小学館は」と言うよりも、「世間の人たちは」のほうが近いか。やっぱり「読みたい」と積極的に思う人たちが少ないから絶版になるわけで、つまり世間があの作品を「良し」としていないということだ。それは「古い作品だから」というわけではなくて、「時代が変わってしまったから」だろうな。ああいう真っ直ぐなものを素直に「いいねえ」と言って涙するような時代じゃあ、もう、ないらしい。もっと複雑で入り組んだ、頭でっかちな作品ばかりが好まれる時代だ。あるいは、今風の美少女がいっぱい出てきたりとかするものが。
 ネット上で『ドッヂ』を絶賛する人が現時点でほぼ僕しかいないというのは、そういう時代状況を色濃く反映している。僕は「近代でない」価値観、誤解を恐れずに言えば「前近代」を良しとする人間だから、『男吾』や『ドッヂ』が文句なしに好きなんだけど、「近代」の人間ってのはそうじゃないのね。 
 
 なんてことを考えながらインターネット上をうろうろしていたら、田川ミ先生が伝統芸能やお祭り、地元の歴史や昔話というものを非常に大切にしている人だということが、わかってしまった。僕はそれで、「ほら見ろ!」と思った。やっぱり、正しいことと正しいことというのは繋がっているんだ。言うまでもなく「伝統芸能やお祭り、地元の歴史や昔話」というのは「前近代」に属すもので、「近代」という時代が「消そう、消そう」と躍起になっているものたちだ。『男吾』や『ドッヂ』も、おそらく近代が「消そう、消そう」と頑張ってきた価値観が詰まっている作品。
 なぜ近代がそれらを「消そう、消そう」とするのか。それは、「お祭りが残っていたり、『男吾』のような作品が売れ続けてしまっては、人々が正しい意味で仲良くなってしまう、人々が本当に楽しいことを思い出してしまう。それはいけない、人々がばらばらにならなければ、人々がお互いに疑りあうような世界にならなければ、お金儲けができない……」近代は、そういう考え方をする。そしてこれが、いつの間にか「時代の空気」というやつになって、一人一人の人間たちの心の中に住みついてしまった。僕はそんな「近代→現代」という時代が、大ッ嫌いであるよ! 僕が前の記事の最初で「挑戦状」と書いたのは、そういう意味もある。「こういう価値観は、子供だけが持っていればいいんだ」というような考え方への異議が、「『ドッヂ』をアフタヌーン四季賞に応募する」という行為の中には含まれていると思う。作者の意図とは別に。
 そう、子供だけは今でも、「前近代」に属している部分もある。だけど「近代」は、子供に対して「はやく近代的になりなさい!」ということしか言わない。だから「前近代のまま大人になった人」というのはほとんどいない。それだから、青年〜大人が読む雑誌である『アフタヌーン』読者には、『ドッヂ』を「良し」とする人が少なくて、「これはアフタ向きじゃない」なんてことを平気で言う。「あれ? どんなジャンルの作品でも面白ければ載せちゃうってのがアフタの良さじゃなかったのか?」なんて僕なんかは思うんだけど。
 
 
 さて本題。僕が友達に送ったメールの中から、『ドッヂ』に関する部分を加筆訂正して載せてしまおう。僕が「『ドッヂ』は正しい!」とかまたフワフワした抽象的な言い方をしていたら、「正しいってどういうこと?」と訪ねてきた人がいたので、そのお返事。
 

『ドッヂ』にある「正しさ」とは、ずばり「西間木くんがクラスメイトたち(佐藤くん含む)の本質をちゃんと見抜いている」ところにあると僕は思います。西間木くんは大工の棟梁です。職人の親方です。「これだけの材料で家を建てるためには、この木材をどのように加工して、どの位置に配置したらいいか」ということを黙々とやるのです。それは徒弟たちに対しても同じで、「このメンバーで良い家を建てるには」を考えます。「こいつはこういうことが上手だからこういうことをやらせよう……。こいつにはこういう特性があるからこういうふうにやらせれば上達するだろう……」ということを、黙々とやります。徒弟たちは親方が具体的なことを何も言わないから、怒鳴られたりするのを「親方って気むずかしいなあ」で済ませてしまったりもして、時に反発もするのですが、それでも親方の背中を見て、手先を見よう見まねしているうちに、技術と一緒に気持ちも伝わってきて、「ああ、そういうことか」といつの間にか理解して、一流の職人になっていくのです。次第に親方を中心とする「ファミリー」は「あったかい」ものになっていきます。

『ドッヂ』で「リーダー」という言葉が使われているというのは、そういうことを表しているようにしか思えません。ふつう、近代的な「平等」を好む人は、「クラス内のリーダーの存在」を肯定的には表現しません。「リーダー」という言葉は社会のピラミッド構造を連想させますから、「みんな仲良しの素敵なクラス」を描くときには、「みんな平等で誰もが同等の力を持っているクラス」を描きたがるものです。「リーダーがクラスをまとめる」漫画というのは、存外珍しいと思います。「全体主義だ!」なんて、平等病の人たちは言いかねません。しかし『ドッヂ』は、そういう下らない「平等観」に与せず、あえて「リーダー」という言葉をキーにします。ここがこの作品にある最大の「独自性」ではないかと僕は思います。

 これは、『ドッヂ』が「前近代」的な価値観の中にある作品だからです。何が言いたいかと言うと、『ドッヂ』という作品は前近代を象徴するような「役割」という言葉と関係が深いのです。人間ってのは一緒くたなものではなくて、八百屋もいれば魚屋もいてうまくまわってきたっていうのがあるんだけど、「会社員」とか「自営業」という分け方をしてしまうと、それは「役割」ではなくってただの「分類」になってしまいます。(ここで僕は岡田淳先生の『扉のむこうの物語』を思い出します。)
 佐藤くんがうっかり口にした「弱い」という言葉は、「分類」側の言葉です(だからといって佐藤くんがやなやつというわけではありません、本当に「うっかり」です)。だいたい、強弱といったような「数直線で表すことの出来るような尺度」を持ち出すのは、小沢健二さんの『うさぎ!』でいう「灰色」に頭をやられちゃった人たちです。
 それに対して西間木くんは、「ひとりひとりの本質をちゃんと見つめて、それに合った練習をすれば、ドッヂ“だって”上手くなる」という意味のことを、(口べたな西間木くんは具体的には言いませんが)言うわけです。
 ラストで西間木くんは「作戦」のために外野にいます。どういう作戦でそうしているのかわかりませんが。(「俺がいたら俺が活躍しちゃうからな」という、『まなびストレート!』第4話におけるももちゃんのような考えからなのか? 徒弟の成長を見守る親方の心境?)
「作戦」っていうのは、チーム成員一人一人の特性をちゃんと見つめていないと立てられないし、実行もできないものです。“たかが”ドッヂの試合に「作戦」を持ち出してくる西間木くんは、「強い、弱いという分類」ではなくて、「特性による役割」というものを重視しているわけです。作戦というのは、「こいつにはこういう特性があるから、こういうふうに動いてもらおう……」と考えるものだからです。「こいつとこいつは強い」「こいつらは弱い」なんていうふうな思考から、あまり良い作戦は生まれません。せいぜい「こいつらは弱いからオトリにして……」といった、ひっどいものしか出てこないでしょう。
 このように「役割」を重視する西間木くんは、「人と人との間にまだ“関係”があった」前近代という時代にいて、そしてクラス全体をそこへ導いていきます。僕が「正しい」というのはそういう意味です。「人間と人間とが切り離されていない」という状況ができるまでの過程が、『ドッヂ』なのです。

 
 僕が多用する「正しい」とは難しい言葉で、その言葉自体にアレルギーや嫌悪感を持ってしまう人もいる。「正しい」ということは「間違っている」ということを前提にしてしまう言葉で、世の中には「間違っているものなんてない」と思いたがるような優しい人も多いのだ。その気持ちもわかるんだけども、「でも、正しいことってのはあるんだよ!」と僕は叫びたい。
 さっき、『ふたりはプリキュア』(2004年)というアニメの第五話を見ていたら、プリキュアの二人が「そんなの絶対間違ってる!」という言葉を、何度も何度も、敵キャラに向けてぶつけるシーンがあった。それを見て僕は、「そうだよなあ、間違ってるものっていうのはあるよなあ。そしてプリキュアは正しい。うん、正しい」なんてことを思っていたのだった。
 
 今回の記事のテーマは「近代・前近代」。そういうふうに二元論的に語ってしまうことがすでに近代的ではあるのかもしれないけれども、でも「論理」という手法の上では今の僕にはそういう言葉を使ってしか語れない。力不足だ。
 ところで。僕は本当は「観念的」というよりはすっごい「直感的」で「肉体的」で「行動的」な人だと思うんだけど、インターネットっていうのは観念の世界でしかないから、正しくあろうと思えばついつい観念的な存在になってしまう。ネット上でも平気で「直感的でしかない」ような状態でいられる人って、羨ましいような、でもちょっと危なっかしいような感じがある。
 そんなことはどうでもいいか。ともあれ、『ドッヂ』は名作なのである、ということをわかってくれて、僕に報告してくれた何人かの友人たちに大きく感謝!
(芝浦慶一)