田川ミ『ドッヂ』(アフタヌーン四季賞2009春うえやまとち特別賞)――誰も褒めないなら僕が褒めるぞっ!

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月刊 アフタヌーン 2009年 07月号 [雑誌]

月刊 アフタヌーン 2009年 07月号 [雑誌]

 
 2ちゃんねるアフタヌーンスレッドと四季賞スレッドを見て少し残念な気分になった。いくら彼らが「批判することを生業としている」ような存在であるとはいえ、あんまりだ。
アフタヌーン四季賞2009春のコンテスト」において「うえやまとち特別賞」を受賞した田川ミ先生の『ドッヂ』について、絵以外のことを褒めている人がほとんど皆無であるというのはどういうことなんだ? 「田川ミ ドッヂ」でググっても、感想を書いているのはたった一人しかいなくて、「画力が見事」で「さわやかな読後感」だそうだ。でも僕はどうしても、それだけで済ませたくなんてない。
 
 これはハッキリ言って、「媒体がアフタヌーンだから」だろう。アフタ読者には自称「一流の漫画読み」さんが多いので、『ドッヂ』のような作品を手放しに褒めることが恥ずかしかったりするのかもしれない。「面白いけどアフタ向きじゃない」という意見もあった。でも、この作品をあえてアフタヌーン四季賞に応募した心意気というのは、もっと評価していいんじゃないか? これは正直言って「挑戦状」みたいなもんだよ。「これって正しく“マンガ”でしょ? これってちゃんと面白いでしょ? これってアフタヌーンに載っててもいいでしょ?」であるよ。とよ田みのる先生の『友達100人できるかな』と、伝えたい想いは一緒なんだから。
 この作品を愛せないというのは、たとえ「漫画読み」として一流であったとしても、「人間」としてはどうなんだろうと思う。「好みじゃない」で片づけられるほど、浅薄な作品ではないと信じているよ、僕は。
「もっと素直に、好きって言ってもいいのにな」って僕なんかは思う。
 
 今読んでいる本が これまた橋本治の『オイディプス燕返し!』なんだけど、前回の記事で書いたことに関連する内容があったので引用してみる。
 

 私ほど“好き・嫌い”を前面に出してものを言う人間もいない。「“好き・嫌い”を口にしたら知性として失格」という世の前提に対して「そういうの、嫌い!」と言ってのける知性が私なのである。
 (橋本治オイディプス燕返し!! 蓮と刀・青年編1』河出書房新社、P101)

 
「好きだ」と言うことだって、立派に「知性」になりうるんだけど、世の人々(特に男性)は、「好きだ」と言うことを恥じる。僕は常に「好きだ」「嫌いだ」からしか思考を始めないので、その意味で「先に結論ありきのこじつけ」になってしまいがちなのだが、「こじつけでも辻褄があえばそれにこしたことはない」とも思うので、特に気にしていない。
 僕は自分の感性を信じているので、「好きだ」という直感から思考を始めれば、「だからこの作品は素晴らしいのだな」という「根拠」がちゃんと見つかる。『ドッヂ』を読んだとき、最初に感じたのは「ああ、好きだ」だった(ラスト近くでは、ちょっと涙が出た)。それから「なぜ自分は好きだと思ったのか?」と考えると、いくらか理由が見えてくる。
 
『ドッヂ』は、小学生がドッヂボールをするという、それだけの話である。正直言って、地味である。しかし、その地味なモチーフの中に、「熱さ」と「正しさ」があるのである。あらすじは、本当は全部書きたいのだが、“意外と”複雑(これを単純だと言うやつの気が知れないというのは、ちゃんと読んでちゃんとあらすじを書いてみようとすればわかる)な話なので、ちょっと難しいから簡単にだけ書く。
 

 クラス対抗ドッヂボール大会に向けての練習が始まった。1クラスが2チームに分かれ、それぞれトーナメントを勝ち抜く形式だ。6年2組は佐藤くんと西間木くんという二人の少年がそれぞれリーダーになってチームを牽引していくことになった。佐藤くんは容姿端麗でスポーツ万能、性格も良くてみんなの人気者だが、西間木くんはがさつで乱暴、さらに口べたで素直じゃないガキ大将タイプ。佐藤チームはもともと実力者が揃っていて、佐藤くんの人望もあって練習もうまくいくのだが、西間木チームは西間木くんの暴君(スパルタコーチ)っぷりに不平を漏らす子たちが続出して、統制がうまくとれない。しまいには「佐藤チームに入れてもらおう」と言って練習を放棄してしまう有り様だ。そこで佐藤くんは……ああっ! これ以上は書きたくないっ! 要は、いろいろあってうまくいくんですよ。その、「うまくいくまでの過程」というのが本当にもう素晴らしいのだ。具体的にちょっとだけ言うと、佐藤くんがわざと悪者を演じてみたり(で、そのことにちゃんと西間木くんが気づいたり)、暴君に見えた西間木くんが実はチーム想いの素晴らしいリーダーで、メンバーそれぞれの個性や特性に合わせた練習法を必死に考えていたり、西間木チームの面々がそんな西間木を誤解していたことに気づいて、彼を受け入れていったり……一言で言っちゃえば「いい話」になっていくわけです。最後は佐藤くんと西間木くんとのハイタッチで締めくくるという完璧さもたまらない。しかも細かな演出や伏線も非常に巧く機能している名作なのです。

 
 アフタヌーン読者は『ドッヂ』を、「子供だましのストーリー」だと思うかも知れない。選評でも、「画力に頼らない骨太の話作りに期待する」とか「物語や人物造形が定型的にならないよう」とか言われている。そうか、新人に求められるのは「奇抜さ」や「斬新さ」でしかないから、感動を導く「王道」な作品をそつなく描き上げられてしまうことは、あんまり評価されないのだなあ。僕はこういう「ともすれば“定型的”と言われてしまいかねない」王道な物語を、魅力的な画風とプロ級の画力で描き切れてしまうことこそを評価したいんだけど。
 思い出すのは、これまた前回の記事で話題にしたMoo.念平先生の『あまいぞ!男吾』だ。コロコロコミックに七年以上にわたって連載されていたこの作品を僕は心から愛しているのだが、それというのも、『男吾』が「王道中の王道」を衒いなくやってのけているからだ。小学館漫画賞も受賞している名作だが、現在は復刻版すら絶版で、読めない。(小学館は何をやってるんだ?)
 現在アフタヌーンで連載中のとよ田みのる友達100人できるかな』だって、SFな味付けはしてあるものの、やってることは『あまいぞ!男吾』や『ドッヂ』と同じだ。「人間と人間との関係において、絶対に忘れてはいけない大切なこと」を描いている。僕が子供に読ませたい、また読むべきだと思うマンガって、こういう作品なんだけど、どうしてそれが評価されないのかな?……理由は簡単で、「子供は評価なんてしない、評価するのは大人だけ」だからだ。子供はただ、素直に作品を読んで「面白い」と言うだけだ。素晴らしい作品を読んで育った子供は、素晴らしい価値観を「当たり前のもの」として持つようになる。だから僕は、そういう漫画をこそ子供に読んでほしいと思うのだ。
 僕は感性が子供なんで、大人のくせにこういう作品が好きで、感動して泣いて、しかも「評価」までしてしまうんだけれども、普通の大人たちは「子供だましだ」で済ませてしまうのかもしれない。別にそれでいい。大人が『あまいぞ!男吾』を「面白い」と思う必要なんてない。だけど大人がするべきことは、「『あまいぞ!男吾』のような名作をちゃんと評価して、子供が手に取れるような環境を作る」ことだと僕は信じている。でなければ、今のご時世にどうやって「情操教育」ってもんを施すんだ! 素晴らしい価値観を「当たり前」とするためには、素晴らしい価値観が描き込まれた作品を読まなくてはならない。人と人との関係が希薄になってしまった現代において、それ以外に「正しい情操教育」の方法が思いつかない。
 
 えらそうだけど、僕は『ドッヂ』という作品を本当に高く評価したいと思う。絵が上手いだけでなく、ストーリーが美しいというだけでなく、驚くほどに演出が細かく、伏線もしっかり描き込まれている。こんなに細部にまで気を遣える新人というのは、そうはいないのではないかと思う。
 例えば、ラスト近くで子どもたちの様子を見守る先生の表情なんかにまでちゃんと気を遣って、「先生が何を考えているのか」が完璧に分かるようになっている。先生に限らず、佐藤くんや他の子どもたちについても、「表情で意志を伝える」ということがべらぼうにうまい。また、西間木くんのマル秘メモ(それぞれのチームメイトに合わせた練習法が書いてある)を拾った太めの少年が、全42ページ中約10ページ(出てこないページもあるが)にわたって、コマの隅のほうで拾ったメモを西間木くんに渡そうとし続けている(で、ことごとくスルーされる)のも非常に丁寧に描いていて、生き生きとした伏線になっている。伏線を10ページにわたって描きつつ、ちゃんとストーリーを進めているところは本当に感心してしまう。
 伏線と言えば、佐藤くんへの送球でノーコンっぷりを見せた女の子が、西間木くんへの怒りを込めたショットでは完璧なコントロールと力強さを発揮して、「やればできんじゃねーかよ……」と西間木くんがつぶやく、というのも、後半の「俺のチームはまだ本気出してねーだけなんだよっ」へとちゃんと繋がっている。
 こういった完成度の高さを見て、「もっと骨太の話作りを」と言うのだとしたら、「骨太ってどういうことなんだ?」と疑問に思う。……いや、うえやまとち先生は昨年の『糠床何処どかぬ』に続いてまたもや素晴らしい作品に特別賞をお与えになってくださったので、それだけで充〜分に偉大なんですけど!
 
 西間木チームが佐藤くんのところへ行ってしまうシーンは、拙作『たたかえっ! 憲法9条ちゃん』で、「9条ちゃんが学校に通う権利」を勝ち取るためにクラス全員が教室を出て行くシーンに似ているなと思った。あのシーンでは「別にどっちでもいいけど、みんなが教室を出て行くなら仲間はずれになりたくないから自分も出て行く」という心理が描かれている。『ドッヂ』でも塾通いの少年が「ちっちがうよっ僕はムリヤリ…」と言っているが、それに対して「何だよ今さら!?」と突っ込まれているところを見ると、「ムリヤリ」というより「なんとなく流されて」が正解だろう。「一部がそういう空気になってるからなんとなく佐藤チームのほうへ行った」というような児童は、きっとほかにもいたと思う。そういうことをちゃんと描いてしまっているところにも注目したい。
 結局、「西間木くんを嫌う正当な理由」なんてものはなかったのだ。すべては「なんとなく」なのである。ただ彼らは「西間木くんの厳しくて自分勝手に見える雰囲気」だけを感じて、嫌悪して、彼の本質を見ようとしなかった。だから「雰囲気に流されてチームを飛び出す」ということにもなる。太った少年は西間木くんの本質を(メモを見てからか、最初からか)知っていたから、佐藤くんのほうへは行かなかった。もちろん西間木くんが不器用なのが一番の原因だが、「本質を見てあげられないみんな」のほうにも原因はあるし、何よりもこのクラスがまだ「本質を読み取れるほど仲良くなっていない状態」であることに問題はある。
 ここまでくると、『ドッヂ』という作品が何を描いていたか、ということがわかってくる。これは、「行事を通じてクラスに一体感が生まれる」である。球技大会や、野外学習(合宿)や合唱コンクールや文化祭などを経てクラスの結束が強まった、という経験は、おそらく多くの人たちが経験していることだろうと思う。『ドッヂ』で描かれているのはそれなのである。そういう美しさなのである。「ドッヂボール大会」という行事(体育の授業の一貫なのかもしれないが)を通じて、6年2組が一つになった、そういう話なのだ。「佐藤くんと西間木くんとの友情」だってもちろん大きな要素ではあるが、決してそれだけではない。
「スポーツを通じて親睦を深める」なんて、一種全体主義的だし、「できない子」を差別してしまいがちだし、洗脳の手段としても使われる(僕は実際に、とある宗教団体の合宿に拉致されてサッカーをやらされたことがある)ようなことだから、本当はあまり好きではないのだけれども、こんなふうに美しくやられてしまったらどうしようもない。実際僕は教育実習に行ったときに「バレーの練習を通じて、ふだんしゃべったこともない子同士が会話を始める」というような光景を目撃してもいるので、そういうことが本当に起こるのだということも知っている。しかもこれ、スポーツがサッカーとか野球とかじゃなくて「ドッヂボール」で、さらに小学六年生という、まだ男子と女子との間の体力の差が著しくはない頃だったりするので、「スポーツを描く嫌らしさ」というものもない。西間木くんは「弱いと言われてしまいがちな子には、それに合った練習方法を考える」ということまでしているので、「スポーツできるやつだけが偉いのだ、運動音痴は隅っこで死んでいろ」というような、現実の小中学校にありがちなファシズムを持っていない。スポーツ嫌い(スポーツ漫画は好きだったりするけど)の僕が『ドッヂ』を素直に好きだと言えるのは、そういう理由からだ。
(ちなみに身体を動かすこと自体はすっげー好きであるし、意外とそこそこ体力も根性もあってアウトドア派でもあるのが芝浦だったりする。自転車ラブ。でも「スポーツ」は嫌いだ! あんな野蛮なもの学校教育には不要だ! 日本人なら武道と蹴鞠!)
 
 ほかにも、『ドッヂ』を礼讃しようと思ったらする材料はいくらもあるのだが、長すぎてもアレなのでこのあたりにしておこう。
 僕は『ドッヂ』が大好きで、正しいと思うし、美しいと思うし、「善い」と思う。常にこういう作品が世の中に満ちていればいいと思う。田川ミ先生には、ぜひ『あまいぞ!男吾』級の名作を描いていただきたいし、それだけの才能と魂はお持ちであると信じている。編集部からは「スケールが大きくて、もっと“複雑”な」作品を望まれるだろうけど、その希望を満たしながらも、しかし熱く正しい作品を描けるだけの度量は、きっと持っている方だろうと思うので、ご本人にはプレッシャーかもしれないけど、この『ドッヂ』に込めた想いを忘れたりしないで、ずっと美しい作品を書き続けていてほしいと願う。受賞コメントに「読者のみなさまの心に残るような作品を描きたい」とあったので、きっと「そうなる」だろうなあ、と安心しながら新作を待ちこがれております。
 
 ところで、作中のネーム(せりふ)では表記が「ドッジ」なのに、タイトルが「ドッヂ」なのは、これはやはり「どっち」という言葉とかけてるんだろーか。佐藤くんと西間木くんと、「どっち」なのかっていう。なんでそう思うのかっていうと、扉絵のタイトルロゴだと濁点が右下についてるからパッと見は「ドッチ」に見えるのだ。しかも扉には佐藤くんと西間木くんの二人が描かれている。だから「どっち」っていう意味が少しは込められているのかなーと。作品を読むと、「どっち」とか考えることなんかナンセンスだ! ってことになるんだけど。ドッチも素晴らしいリーダーだから。

(芝浦慶一)

  • 追記

 やっぱりまだまだ言い足りない。西間木くんはクラスメイトたちを本当によく見ている。自分のチームが「まだ本気出してないだけ」と言えるのもすごいのに、「それぞれの適性に合った練習方法」をちゃんと考えられるということなんて、本当によく見てないと、本当にちゃんとクラスメイトたちを理解していないとできない。しかも西間木くんは、ライバルである佐藤くんのこともよーく見ている。よーく見ていないと、ああいうふうにカマはかけられない。「佐藤くんが悪役を演じていたのではないか」という疑問を、小学六年生で抱けるっていうのは、すごいよ。西間木くんは、佐藤くんの「本質」をちゃんと見抜いていたんだなあ。「佐藤は(むかつくけど)いいヤツなんだから、あんなことを本気で言うわけがない」ってわかってたんだもんね。美しいよね。そういうところに僕は感動するんでありますよ! こういう物語を、もっと読みたい!
 ……田川先生、拍手のお返事ありがとうございました。拙文、読んで頂けて本当に光栄です。こんなに心から「大成してほしい」と願えるような新人さんは、ほとんど初めて。ほかの作品も読んでみたいなあ。『やとのさと』も気になる。今度八王子に行ってみようっと。


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