「インターネットで発言する」とは「言葉を自ら進んでゴミ箱に入れる行為」である/橋本治『合言葉は勇気』

 

合言葉は勇気 (ちくま文庫)

合言葉は勇気 (ちくま文庫)

 
 橋本治の対談とインタビューをまとめた本『合言葉は勇気』を読んだ。
 巻頭、数十ページにわたって「合言葉は勇気」と題された文章が収録されているのだが、これがすごい。その主旨について踏み込むとトンでもないことになりそうなので、省いて、一部分だけを取り上げてみる。
 橋本治は、世の中には「好き」という言葉がないという。辞書に意味だけ書いてあって、用例が存在しないような言葉だと。その理由としては、「世の男の人って“好き”という言葉を“これは一般的見解ですけどね”という文脈の上でしか使わない」ということらしい。「男が使わない」ということは、「世の中に存在しない」ということとほとんど等しい……少なくともこの本の初版が世に出た1985年ごろは、そのように言い切れしまう「何か」が存在したのだろうし、今だって基本的にはそうだろうと思う。そして次には、こんな言葉が飛び出してくる。
 
「どうりで俺の言葉が全部ゴミ箱に捨てられると思った」
 
 この一文を読んだ瞬間、橋本治という人は本当に孤独な人だったのだなと思った。と同時に、僕のこれまでの人生が少しだけ救われたような気がした。
 橋本治は常に「一般的見解」の外にいて、そこで「好きだ」を叫び続けていた人なのだ。だからもちろん、一般的見解以外の「好きだ」が存在しない世の中において、その言葉は誰にも届かない。自分が実はゴミ箱相手に喋り続けていたのだと気づいた時の絶望感は、想像も及ばない。彼はずっと、おそらく幼少期から、そのくらいの孤独にじっと耐え続けてきた人だった。
 橋本治はたぶんずーっと、作家になる前から、誰かに対して語りかけつづけていた人で、だけどおそらく、彼が伝えたいこと、わかってもらいたいことの何十分の一ほども、その相手には伝わっていなかった。彼は「一般的見解」というものから逸脱して、絶対にそこには入っていけないような業を背負った人で、だからこそたった一人で「橋本治」という思想を作り上げなければならなかった。『ぼくたちの近代史』(河出文庫)で、「橋本治という思想家が生まれる前の橋本治ってのがいちばん辛いんだよね」ということを言っていたように、彼は「どんな“一般的見解=思想”も持つことができない」という辛さから逃れるために、“橋本治的見解=思想”というものが必要だったのだ。
 
 僕も、「自分の言っていることを誰からも承認してもらえない」ような子供だったと、少なくとも自分ではそう思っている。小学生のころにさとうまきこの『わたしの秘密の花園』を読んで、「本当にわかってほしいことは、本当にだれにもわかってもらえない」というせりふに多大なる感銘を受けたタチだったので、そのころにはもう「なんで僕の言うことはわかってもらえないんだ?」ということは感じていた。もちろん、橋本治氏のように高級な(?)ことを考えていたわけではないのだろうけど。
「わかってもらえない」というのは、はじめは親や兄弟に対してだった。本当にくだらない例だが、僕が替え歌を得意げに歌っていて、「お前、歌詞間違えてるよ」と言われて、「これは替え歌だよ」と答えても、「誤魔化すなよ」と笑われてしまうような、そういう「わかってもらえない」が端緒だったろうと思う。
 小学校に上がると、クラスメイトや先生との間に似たようなことがいっぱいあった。覚えているのは、2年生の時に同級生から「5わる2はいくつだ?」と問われて、「2.5だろう」と答えたら、周りがざわつきだして、だれかが優等生のNくんに、「おい、5わる2って2.5なのか?」と聞いたら、Nくんは「2あまり1だと思うよ」と答えた。それでみんなは、「芝浦、間違ってるじゃないか。やーいやーい」と、思いっきり僕をバカにした。「正しいのにバカにされる」という理不尽を初めて感じたのはこのときだったかもしれない。
 先生については、はじめから「子供はバカだ」「適当に誤魔化しておけばいい」と思って接してくるので、本当に扱いが雑で、僕が何を言っても聞き入れてもらえなかった。もちろん、今にして思えば僕も相当雑な主張をしていたのだろうと思うけど。
 まぁ、そんなこんなは、ちょっと早熟で生意気なガキであれば誰もが経験することだろう。だからこそ、橋本治の「どうりで俺の言葉が全部ゴミ箱に捨てられると思った」という言葉は、わりと多くの人の心を打つだろうと思う。特に、好んで読書なんかしちゃったりするような人には。
 
 高校生になって、大学生になっても、「わかってもらえない」は続いていた。僕の言葉は、全然届かない。まるでゴミ箱に向かって話しているみたいだ。そのように思っていた。いた。今では過去形になっている。
 それがなんでかというと、大学生の途中くらいまで僕は「インターネット上でしか言葉を発していなかったから」である。それは友達がいなかったとか、無口だったということではない。むしろ友達は多いほうで、饒舌すぎるほどに饒舌だった。でも、大切なことは何一つ、生身の相手に対しては口にしない人間だった。その代わり、インターネット上では本音ばかりを書いていて、それで「届かない」なんて思っていた。勝手なものだ。インターネットなんてそれこそ巨大なゴミ箱のようなものだから、届くもんだって届かないに決まっている。そういうふうにできている。そういうことがわからないほどに、僕は未熟だったのである。早熟な子供は、きっとどこかで未熟というものを背負ったまま成長してしまうのではないかと、自分の例だけを見れば思ってしまう。(これはあながち間違ってないと思うんだけどな。)
 ここ数年は、できるだけ「自分」を出すように意識して生身の人間と喋るようになったし、それに反比例するようにインターネット上にものを書くことが少なくなった。――これでも少なくなったほうなのだ。量が少なくなったというよりは、質の問題で、「自分」について書くことが本当に減った。こういうふうに自分の過去のことを、全世界に向けて発信するというのも久しぶりである。「自分」について書かない、というのはけっこういろいろ理由があるのだけども、長くなりすぎるので略。
 それでももちろん「伝わってるなあ」とは、あんまり思わないんだけど、でも、個人対個人で話をすると、やっぱり相当「伝わる」率は高くなる。そういう味ってみんな知っているはずなのに、どうしてインターネット上でコミュニケーションを取りたがるのだろうか?
 
 さて、問題にしたいのは「インターネットとは巨大なゴミ箱のようなもの」という部分である。Twitterなんて、まさにそういうものであろうと思う。僕はあのサービスが大嫌いだ。と言って、自分も参加しているのだけれども、それはそれとして、嫌いだ。
 あれっていうのは、まさしく「言葉をゴミ箱の中に進んで投げ入れていく」ような行為でしかない。インターネットという不特定多数に向けて発信するメディアは、基本的にそういうもので、そこにあるべきものは「情報」や「娯楽」のみであって、「情緒」とか「感情」というものではないし、ましてや「人間関係」などというものがあるべきはずがない。だから、そういった種類の言葉はことごとくゴミ箱に入れられる。(誤解してほしくないので言っておくと、僕は2000年前後に毎日5〜10時間以上「チャットルーム」に入り浸っていた人間であるので、Webにおける濃密な人間関係の存在についてはよく知っている。知っていて、あえて言うのである。)
 Twitterというのは、「おはよう」とか「天気がいいね」くらいのコミュニケーションには適しているけれども、それよりも複雑な内容になると、ほとんど意味がない。僕は複雑な内容ばかり書いているが、何の手応えも感じない。誰からも気にかけられることなく、泡沫のうちに消えていく。いったい、Twitterを嬉々として利用している人たちは、何を魅力だと思ってそれをやるのだろう。ただ独り言が言いたくて、それを「誰かが受け止めてくれている」と錯覚したいだけなのだろうか? たまに反応があったり「ふぁぼ(お気に入りに入れる)」られたりすると、「ああ、受け入れられた」って思って、嬉しいとか、その程度の話なんだろうか。あるいは「Twitterで育まれる人間関係」というものに魅力を覚えているのだろうか。
 確かにTwitterにはオフもあるし、オフで会わなくてもネット上で仲良くなったりということもある。僕はそういうあり方に違和感を覚えるような世代ではないし、ネットで出逢った素晴らしい友達もたくさんいるから、そういうことは非常によくわかる。わかるんだが、僕が思うのは「そういう楽しさを、そんなにも得たいのか」ということである。それは確かに楽しいし、ウキウキもするけれど、それはべつにどうしてもやらねばならんことでもないだろうと思うのだが、みんなはなぜあえて「そういう楽しさ」を選び取っているのか、というのである。これは単純に疑問である。冷静に言ってしまえば「暇つぶし」とか「なんとなく」なんだろうけど。
 というと、じゃあ自分はなぜそのTwitterなんかをやっているのかということになるのだが、有り体に言うと、芸能人がやりたくもないブログをやっているような状況と同じで、営業上の理由という打算的なこともある。それとて、本名や「正規のハンドルネーム」ではあまりやりたくない。「しばk」であればこそ、できることだ。「正規のハンドルネーム」という個人としてTwitterで人間関係を築いていくことは、とてもできない。そんな危なっかしいことは、ごめんだ。
 僕は以前にTwitterで、ちょっとした知り合いの人から「事実でないことをたくさん含むものすごい陰口」を言われたことがあって、それをぜんぜん知らない人がいっぱい聞いていて、「ふうん、その芝浦ってのはひどいやつだねえ」みたいなことを言われていたのを、見たのである。そういう恐ろしいことが起こって、しかもそのログが一生残るようなメディア(これはインターネットそのものでもある)に、進んで入り込んでいくほどのメリットが、いったいどれほどにあるのだ?
 だがしかしそれでも僕は「しばk」としてであれ、インターネット上にものを書き、Twitterもやっているのである。それはなぜかというに、やっぱり「インターネットの光」というのをどこかで信じているからだろうなあ。僕はTwitterに、誰にも届かないはずの言葉ばっかり書く。「おはよう」とか「ねむい」とかは書かない。基本的には複雑なことしか書かないし、たまに単純なことを書いてしまうと、あとで反省して消す。
 川に笹舟を流すように、孤島から手紙入りのビンを送り出すように、「いつか誰かに届いてくれ」と祈りながら、「自分が大切だと思うこと」を書くのである。ゴミ箱のような空間の中から、ゴミのように死んでしまった言葉たちのなかから、いつか「光るゴミ」を見つけてくれるような人が現れるかもしれない。(このへんはなんか、植芝理一ディスコミュニケーション』の『光るゴミ』という話を思い出す。)
 
 なんてことを言っているが、結局僕がTwitterに書いていることがなにかというと、「なぎさは宇宙」とか「プリキュアの美しき魂に僕の邪悪な心が打ち砕かれました」とかそういうことなんだけどね。いや、だって正しいんだもの。仕方ない。仕方ない。
 
 最近だと、三重野瞳のアルバム『2930〜にくみそ〜』がいかに素晴らしいか、とか、コージィ城倉の『砂漠の野球部』がいかに面白いか、という話を書いているんだけど、特に反応があるわけでもない。手応えは皆無である。そりゃーメディアの性質上の理由もあれば、僕の性格や文章力の面もあるし、フォローしてくれてる人たちの人数や嗜好の問題もあるんだけど、やっぱり自分が「正しい!」と信じていることを読むなりゴミ箱に捨てられているような状況が、楽しいわけがないです。
 そんな状況で僕がすべきことは何かっていうと、それはもう「しばk」という思想を作り上げることしかないのです。
 たとえば僕がMoo.念平先生の『あまいぞ!男吾』を素晴らしいと言ったとて、誰が『あまいぞ!男吾』を読む気になりましょうか。たとえ読む気になったところで、読むのは大変です。なにしろ復刻版すらもう絶版になってるんだから。だから、僕は「しばk」という思想をちゃんと確立して、それをちゃんと伝えるための言葉を獲得して、『あまいぞ!男吾』を読んでもらわなくても「正しさ」や「美しさ」や「善なるもの」を知らせることができるような、そういう努力をしていくしかないのです。「伝えよう」と思ったらもう、そうするしかない。
「伝える」べき内実と、「伝える」ための方法と、「伝える」ということに対する不断の努力なしには、「伝える」なんてことはできっこないわけです。なんでそんなに僕が「伝える」ということに執心するかというと、僕が「正しい」と思っていることを、どうやら多くの人は「正しい」と思っていない、というか、知ってさえいないようだからです。僕が思う「正しさ」をみんなが知っているような社会は、絶対に今よりももっと幸せであるはずなので、ニヒルになりきれない僕は、傲慢にも「正しさを伝える」などという途方もないことを考えているわけです。
 我ながらうっとうしいことを考えているなあとは思いますが、とりあえず『発狂っ! 刑法39条ちゃん(仮)』の構想でも練りますか。

(芝浦慶一)