『魔法の天使クリィミーマミ』と『魔法のステージファンシーララ』の最終回

 マミの最終回についてはもう語る必要もないが、一応説明しておくと、「妖精ピノピノの魔法の力で変身し、一年間「クリィミーマミ」というアイドルとして活躍していた森沢優(もりさわゆう)ちゃんが、ピノピノに魔法の力を返すその日にファイナルステージに立って歌う」というもの。30分間のうちほとんどが「歌」で占められていて、曲ごとに衣裳が変わる。そのすべてが名曲で、そのすべてが可愛い。最後に歌うのはもちろん、マミのデビュー曲にして番組OPテーマ、古田喜昭作の超名曲『デリケートに好きして』。いやしくも女子であれば、いや人間であれば嫌いなはずがない最終回である。マミとしての力を失うと、使い魔のネガやポジとも別れなければならない……。というのがまた、涙を誘う。
 この「マミちゃんのファイナルステージ」が、『クリィミーマミ』最終回のキモであるが、最後に用意された「俊夫くんと優ちゃんが結ばれる」という結末が、キモの中のキモである。俊夫くんはマミちゃんのファンで、優ちゃんの幼なじみ。俊夫くんはマミの正体を知らないが、ファイナルステージの途中で「マミの正体は優である」ということに気づく。マミちゃんが消えてしまったあと、雨の中で二人は出会う。俊夫くんのところへ駆け寄っていく優ちゃん。「優、きみがクリィミ――」言いかけた俊夫くんの口を、優ちゃんの人さし指がふさぐ。「優は優だもんっ!」二人は、相合い傘をして身を寄せ合って歩いていく……。
 多くは語らないが、とにかくもう完璧な最終回で、僕はこれを観ながら、ファイナルステージの観客と一緒に「マミちゃーん」とか「マミちゃん、返せ!」と叫ばずにはいられないし、「優は優だもんっ!」のシーンでは悶絶して一瞬意識が遠ざかる(そのくらいかわいい)。人間として生まれてきて、この最終回にときめかない人がいるのだとしたら、その人は本当に可哀想な人なんだと思う。「正しさ」も「美しさ」も、「可愛さ」すら知らない、そういう人なのだろう。といった感情論はいったん置いといて、ちょっと解釈を加えてみる。
 最後の、「優は優だもんっ!」というセリフはどういうセリフであるか。
 それはもちろん、「優はマミに変身しなくても(俊夫くんにとっては)充分すぎるほどに魅力的な女の子である」という意味である。そのせりふに俊夫くんは「うん!」と応じる。互いの恋心の確認である。
 変身によって手に入れた魅力は、どんなに可愛かろうがやはり偽物の魅力である。しかし優ちゃんは、「マミだから可愛い」のではなくて、「優のままでも十全に可愛い」なのである。そのことが俊夫くんという「好きな人」に受け入れてもらえて、女の子としてこれ以上に幸福なことはない。だから本当にこの最終回は完璧である。歩いていく二人の頭上で祝福するようにゆらめいている色とりどりの雨傘たちも最高に可愛らしい。これがわからないような男子とは、女子諸君、絶対に付き合わないほうがいい。(ので僕と付き合おう。)
 
 いや、『マミ』の最終回については、これまで散々言われてきたことだし、一度でも観たことがあるという人に言わせれば、「わかってるよ、んなもん!」ってなもんなんで、ここらで『魔法のステージファンシーララ』の話でもしよう。
ファンシーララ』は、1998年に放映されたスタジオぴえろ魔法少女シリーズ五作目で、『マミ』を強く意識した内容だった。『マミ』でマミ=優に15歳の太田貴子が起用されたように、『ララ』でも主人公みほ=ララの声優は当時14歳(中三)の大森玲子だった。みほ(9歳)→ララ(15歳)という変身は、優(10歳)→マミ(16歳)の変身とかなり似ているし、「声優が、その演じるアイドルよりも一つ年下」というのも同じである。ネガとポジに相当する使い魔もちゃんと二匹いる。「普通の女の子が、変身してアイドルになる」という筋も同じ。そして、これから紹介する最終回も、ちゃんとマミの魂を継いでいる。
ファンシーララ』最終回に、「ララ」は登場しない。みほは、すでに変身の力を失っているからだ。だから最終回の展開としては、かなり地味である。単体で見て面白い話ではない。見所は、最後の最後である。みほは偶然「ララ」のスタイリストであったコミさんと出会い、どういうわけだか「今晩お風呂に入ると消えてしまう魔法」をかけてもらう。ヘアメイクを施してもらうのである。そして、こんなせりふ。
「きみ、ララだよね。ヘアメイクしてたらわかったよ。だって、ララのことは僕がいちばんよく知ってたんだから。笑ってごらん、みほ。あと何年かしたら、君はほんものの、ララになれるんだよ」
 一言でいえば、完璧なせりふである。んもう、僕は大好きだ。このせりふの直後にエンディングテーマが流れ出し、みほがブランコで揺れている映像に切り替わる。
 お分かりの通り、この展開はほとんど完全に『マミ』である。年上の男性(俊夫くんは14歳)に正体を見破られ、その男性から「君はそのままでも充分に魅力的である」という承認を受ける。まったくもって、魂が『マミ』である。ただ『マミ』では、「優が俊夫くんとの恋を成就させる」という結末だったのに対して、『ララ』は「みほが自分の将来に対して希望を抱く」という結末になっている。
「時代」の変化というのは、こういうところに現れる。女の子はもう、「恋を成就させる」というところでは満足しなくなっていたのだろう。それよりも「魅力的な自分になる」のほうが、比重が高くなる。『マミ』の優ちゃんは、最後まで外見が変わらず、本当の意味で「そのままでも魅力的」であった。しかし『ララ』では、ヘアメイクをほどこしてもらった上で「あと何年かしたら本物のララになれる」とまで言われる。
 身も蓋もない言い方をすれば、「やっぱり女は見た目だよね」とあっさり言ってのけるのが『ララ』だったのである。『ララ』のラストカットは、「鏡に映った自分に見とれている、鏡の中のみほ」である。みほは、「自分」しか見ていないのだ。
『マミ』の優ちゃんは可愛いけれど、「子供としての可愛さ」しか持っていなかった少女だった。だが、みほは「大人の可愛さ、美しさ」を獲得する。少なくとも、することを予見させる。これが「時代」である。八十年代初頭よりも九十年代末のほうが、女はより「見た目」を重視し(つまり重視され)、「恋愛の成就」よりも「自己実現」に重きを置くようになっていた、ということだ。僕はもちろん『ララ』の最終回も愛してはいるが、『マミ』の最終回が「完璧」であり「世界でも類を見ないほど美しい」と言い切れてしまうのは、決して「見た目礼讃」「夢・自己実現礼讃」に堕してしまわず、本当の意味での「等身大の魅力」を大切にしているからである。だからこそ『マミ』にはすべての女子が熱狂するのだろう、と僕は思う。『ララ』に熱狂できるのは、それ相応の容姿に恵まれた女の子か、身の程を知らない女の子だけかもしれない。

(芝浦慶一)